第29回教会音楽祭のテーマ(主題)について
教会音楽祭は、第5回(1972年)に「あなたの国が来ますように」とのテーマを掲げて以来、
第6回(1973年)「みこころが天と同じく 地でも行われますように」、第9回(1978年)
「わたしたちのきょうのパンを きょうお与えください」、第16回(1985年)「わたしたちの
負い目をおゆるしください わたしたちも負い目をゆるし合います」と、『主の祈り』
(教会音楽祭訳)を随時に取り上げてきました。そしてこのたび、残った祈願句である
「わたしたちを誘惑におちいらせず かえって悪からお救いください」を、第29回
(2009年開催予定)のテーマとして掲げます。
それは、様々な誘惑・試みに取り囲まれているような現代社会においてこそ、切実であり、
必要な祈りです。わたしたちの心から湧き出る祈りと願いを、歌として世に響かせるために、
教会音楽祭は新しい賛美の歌を求めています。
そこで、今回のテーマに寄せて、教会音楽祭実行委員の小宇佐敬二神父(カトリック教会)
による解説とメッセージを用意いたしました。ご参照いただき、テーマに基づく新しい賛美の
歌が、祈りと共に創作されることを期待いたします。
テーマに寄せて
小宇佐敬二神父(カトリック教会)
〜わたしたちを誘惑におちいらせず かえって悪からお救いください〜
「私たちを『試み』へ無理やり引っ張っていかないでください。かえって『悪い(状態)』から
救ってください。」
「主の祈り」の最後の一節(マタイ6:13)を直訳すると、このようになるかと思います。
「試みへ無理やり引っ張っていかないでください」には、詩編139編が強く意識されているで
しょう。この詩編は「主の祈り」の導入にも用いられている重要な詩編です。神の超越性、及びも
つかない知識と力が溢れ、慈しみに満ちたその本性を歌っているのですが、19節以降に問題が
あります。この問題はマタイ5章43節「(隣人を愛し、)敵を憎め」で取り上げられていました。
「敵を憎め」は「律法」に見つけることは出来ませんが、詩編139編21,22節はそれを思わせます。
ここでは「あなたを憎む者をわたしも憎み」と、「神を憎む人間」に「私」は反応してしまい、
神の意思を問うことをしていません。「主の祈り」でも、「試みてください」を取り上げ、詩編
139編19節以降の問題をあらためて指摘し、退けているのではないでしょうか。
詩編26編でも「試み」求めてそれに打ち勝つ強さが誇示されています。「試みてください」には、
どのような試練をも乗り越えて、神に忠誠を尽くしていくという激しい思いがあります。ここに
あるのは「強さ」であり「力を誇る」ことです。この「強者」による「力の論理」、人間の驕りを
イエスは退けているのです。この「力の論理」のもとで、「自分の憎しみ」を神に転化して、
自分の敵を神の敵とすりかえ、「神の名」のもとに敵を殲滅する「聖戦論」が組み立てられます。
現代でもアメリカとイラクの応酬などの中に、このような構造を見て取ることができるのでは
ないでしょうか。この驕りこそが、イエスが退けようとしている「人間の論理」であり「神のことば」
に対抗しようとするものです。これを退けることはマルコ7章1〜23節のテーマでもあります。
「救い」は、「父(アッバ)」が自ら苦しみを受けながら、私たちを抱き守っておられる現実への
気づきからきます。この「救い」には、詩編22編の前半部(2〜22節)が反映しているでしょう。「
神は私を塵と死の中に打ち捨てられているのではないか」このような疑念こそが「苦しみ」であり、
この疑念を振り払う「神の現存への気づき」に救いを見ているのです。それは「神を憎む者」を
なお愛し抱きとめようとしておられる「父である神」に反応することです。
それゆえ、「主の祈り」のこの個所の意味は、次のように読み取れるでしょう。
わたしたちは、弱く小さな者です。試練にあったなら、一たまりもなく敗れてしまいます。
ですから、どうか試練に引き合わさないでください。悪いことに出会ったなら、わたしたちは
あなたから引き離されるかも知れません。試みを持ち込むのではなく、かえって、どのような
悪いことがあっても、いつもわたしのそばにいて、しっかりとわたしたちを捕まえていてください。
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